環境の変化があって忙しない日々が続き、暫く映画鑑賞に割ける時間もない生活だったが、4月に入りようやく2本の映画をゆっくり観ることができたので、ここに感想を記しておこうと思う。
ひとつめは「教皇選挙」だ。3月20日の封切日に駆けつけたかったが、新生活が落ち着いてからやっと観ることができた。
こちらは本年度アカデミー賞8部門にノミネートされている話題作だし、既に多くの映画好きによる数多の感想で満ち満ちているので、ここでは遠慮しておこう。圧巻の映像美と引き込まれる筋書きで、間違いなく面白かった、とだけ述べておく。
ふたつめの映画は「バグダッドカフェ(4Kレストア版)」。
1987年に製作された、当時”西ドイツ”のパーシー・アドロン監督による同タイトルのリバイバル公開だ。
日本では1989年公開で、僕はまだ生まれていない。だが映画が好きだった母の影響で、幾度かビデオで観たことがある。もしかしたら後に出たディレクターズカット版だったかもしれない。
ある程度、物を考えられるようになっていたから思春期の頃だったろうか。この映画を観て、なぜかは分からないがブワッと全身が総毛立ち血が騒ぐ思いがした。
中毒性のある主題歌”Calling you”の歌声も相まって、その後の人生の節々でふと映像と音楽が蘇るような作品となった。
この映画を観たことがある人ならわかるだろうが、ストーリーについては、例えば誰かにどんな内容か伝えようとしても「ふーん、それだけ?」となってしまう、他愛のないものだ。
心に刻まれているのは物語というより、砂漠に埋まるヒール靴や、巨大な給水塔とブーメラン、日に焼けたエメラルドグリーンの壁の色、手にした野菜たち、そんな断片的な光景だ。
いったい何が若かりし自分に、そこまでの衝撃を与えたのか。
今の自分ならそれを解釈できるかもしれないと思い、三十路に差し掛かった今、このレストア版を観た。
舞台はアメリカ、海のイメージしかなかったカリフォルニアに砂漠なんてあるの?と当時は思ったが、アメリカのハイウェイの砂漠地帯で途中下車することがどれほど危険かという知識も今はある(試しに”モバーベ砂漠”とググってみると一面の砂漠色だ)。ヤスミンがどれほど絶望の縁にいたかがわかる。
カリフォルニア旅行でもヒール靴とスーツを着込み、掃除好きなヤスミンと、感情のままに怒りを周囲にぶつけるブレンダ。いわゆるステレオタイプのドイツ人とネイティブアメリカンの女性として描かれる。当時は国民性の違いたるものも知らなかった。
昔はこの2人の女性が冒頭でなぜこれほどまでに苛ついているのか理解に苦しんだが、疲れ果てた人間がどんなものか、今では共感できる。
そして、真逆の2人が心を通わせていく。どんな人種でも、子どもは希望であり、「いないの」とヤスミンが絶望の根源をブレンダに吐露できたことで、解放されたのであろう。
ここで気づいた。
きっと自分はあの日、
人生のうちで、ブーメランを飛ばすだけの日があってもいいんだ
と思えたのだろう。
日本という狭い競争社会、1日も無駄にせず充実させなくては、常に前向きであらねば、という空気に満ちていた。そんなレールに乗りかかっていた思春期の自分に、あの光景が沁みたのだ。
世界は広い。
そして今回見直したことで、タトゥー彫り師のデビーが最後にバクダッドカフェを出て行くシーンの必要性がわかった気がした。
当時は、みんなが仲良くなって自分は中に入りきれず寂しかったのかなーとしか考えていなかったけれど、
「仲が良すぎるわ(too much harmony)」と立ち去るデビーをあえて描くことによって、
全ての人が前向きで安定した人生を欲しているわけではない、
大切な守るべきものがあるほうが生きづらい人だっているのだ。
全ての人がゆるされている、と感じられるシーンだった。
やはり再視聴しても監督が言わんとしていることの全貌はまだまだわからないし、
ブーメランも、手にした野菜も、ステッキのショーが長尺なのも、きっと何かのメタファーがあるのだろうが、自分にはわからない。
それでも、あの頃の自分に大きな影響を与えてくれた作品に違いないし、これからも、あのブーメランの光景が脳裏に幾度も浮かぶことだろう。
何があっても、自分を取り戻したいと踏み出すことができれば、きっと取り戻せる。