久々に度肝を抜かれた映画だった

『牯嶺街少年殺人事件』の大きな特徴
それは、4時間20分という、ロードオブザリングを優に超える長尺で、しかも休憩なしのノンストップ上映だ。

いつもより1つサイズの大きいポップコーンを買って、上映前に気合を入れて臨んだが、そうした長丁場でも気が逸れることなく、最後まで観れる魅力がこの映画にはあった。(ポップコーンは上映前半ごろで平らげた)

全体を通じてこの映画はとにかく視覚的に暗い。照明設計がそもそも抑えめにしているが、それが特に強調されるのは夜のシーン。敵のグループを襲撃するシーンなんかは、罵声が聴こえるばかりで誰が何をしているのかほとんど把握できない。人物の輪郭を掴むのがやっとな、一面真っ黒のスクリーンが目の前に置かれ続けるのは、ただただ戸惑いしかなかったが、このように、物語をおぼろげにしか掴めないまま観続けなければならない仕掛けが、映画の随所に施されている。

「クーリンチェ少年殺人事件は特定の『世界観』ではなく『世界』そのものを提示している」という批評をしばしば見かける。

僕自身その考えには賛同するし、それは物語をうやむやにするこの映画の表象の曖昧さが関係していると思う。物語を掴みきれないというもどかしさが、自分を映画の世界に引き込む原動力になっていると。

・4時間という長丁場を通して切れることのないこの映画の魅力
・その仕掛けとして、状況を把握することを妨げる「暗さ」が挙げられる
・「暗さ」によって映画が提示する「物語」をおぼろげにしか掴めない

では、どういう条件下で「物語」は発生するのか?次回はそれについて考えてみたいと思う。